母の愛情/山高木訥
マリア社会福祉財団について
創立者の荘宏達医師は幼い頃からカトリック信者であり、中学生の頃からカトリックの教理に興味を持ち、自ら犠牲を払うことの意味について模索し始めました。教会の壁画を修復したり、シスターや同級生と共に貧困の村を訪ね、何にかに貢献したいと考えていました。
荘医師は幼い頃からとても優秀で、父から医者になるように勧められていましたが、医学大学ではなく、原子力専攻の学科を選びました。しかし、幼い頃に培ったヒューマニスティック的精神が満足されず、わずか半年で休学する事を決め、その翌年に高雄医学大学へ入学。
大学時代も日々宗教と人生の問題について考え、さらに他の宗教についても独自で研究し始めました。最終的にはカトリックの教えである、人は限られた思想を超えて初めて人生の意味を知ることができると信じるようになりました。
医学大卒業後、内科医として地元彰化で開業医となりました。医師という周りから羨ましがられる職業につきながらも、荘医師は決してそうとは思いませんでした。荘医師は長時間命に対する責任を背負って、命の苦痛に対面していきました。
荘医師は医師と言う職業の意味を問うため、台中に活動拠点を移します。1981年、台中の順天病院の小児科医として勤務し始めます。そこでたくさんの心身障害児を目の当たりにします。1980年代は台湾の経済高度成長期にあたり、経済の著しい発展と共に人口が増加、それと共に心身障害児の数も増えてゆきました。それらの幼児は一般の治療だけでなく、継続的なリハビリが必要でした。その現状を目の当たりにした荘医師はリハビリテーションセンターを病院内に設立、5年後順天病院から独立し自ら開業しました。荘先生の開業と共に順天病院のリハビリテーションセンターは閉鎖されました。
元々順天病院に通っていた心身障害児の保護者の要望もあって、荘医師は自身の診療所の二階部分にリハビリテーション用の空間を設けました。当時オーストラリア籍の郭瑞琳医師が身体障害と脳性麻痺の子供を30年間ケアし続けてました。その郭医師が定年のため帰国する事を決めてました。政府の紹介で荘医師はこれらの患者を受け入れてくれないかとの相談が持ち込まれました。経済的な理由で荘医師は受け入れるか悩みました。そんな時教会で祈りを捧げていた際に答えが浮かびあがりました。「やってみよう、成功すれば今の悩みは解決する、失敗すればただ原点にもどるだけ」
決意した荘医師はイエスの母のように患者の世話をすることを望み、障害を持った方々のための施設を立ち上げると決め、今のマリア社会福祉基金会を創立しました。